ふむ...

やおういかんのぅ

 西郷どん in 熊本

明治10年(1878年)の西南の役西南戦争)で、熊本の町と人がかなり迷惑をこうむったということは、今ではもう、全国的には忘れ去られているのかもしれないが、しかし熊本の土着の人々にとってはそう簡単には忘れられないようだ。先祖が、縁もゆかりもないのに、田畑を荒らされ、家を焼かれたのだから、とんだ災難だったというほかないらしい。西郷軍に参加した士族も、家族が敵味方に引き裂かれるとか、熊本を去るとか、いろいろな悲劇があったそうな。

だから、西郷隆盛どんは熊本ではいまいち人気がない。司馬遼太郎の「翔ぶが如く」第九巻には、西郷軍の「田原坂の戦い」と「熊本退却戦」の様子がつぶさに描かれている。戦場になった熊本に何が残ったかといえば、何千という兵の死体ぐらいだったようだ。

人吉でも戦いがあった。

「(薩兵は)火を放って橋を焼いた。その火が市街地に飛んで民家が燃えはじめ、さらに火を大きくするために薩兵があちこちに駆けまわって放火しては、逃げた。おりから風がはげしく、この日一日のうちに市街地のほとんどが焼けてしまった。……」(文春文庫)


この西郷軍の本営が置かれていたのが、熊本駅の目と鼻の先にある北岡神社だった。そして熊本駅のすぐ裏の花岡山には熊本城に狙いを定めた砲台が築かれた。だから、熊本駅周辺はかつて西郷どんが闊歩した場所でもあった。

その西郷どんが、九州新幹線のキャラクターとなって、今また熊本駅に登場するというのでは、熊本人の感情は「ああ、そうですか」と穏やかに受け入れられないということなのだろう。

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全国レベルでは西郷どんは偉人であり、また自決した悲劇のヒーローとして人々の心に残っている。全国レベルとこの熊本人の感情とのギャップがどうも微妙なのだ。JR九州の人がその辺を見誤ったのも分からないでもない。

ところで、西郷どんが全国レベルで長く人々の心に残ったのいうのは、こういう歌のなかにも見て取れる。

一かけ、二かけ、三かけて

四かけて、五かけて、六かけて

橋の欄干腰をかけ

はるか向こうを眺むれば



十七・八の小娘が

片手に花持ち、線香持ち

もーし誰かと尋ねたら

私は九州鹿児島の



西郷隆盛 娘です

明治九年の戦争で

切腹なされた父上の

お墓参りをいたします



お墓の前で手を合わせ

南無阿弥陀仏と目に涙

もしこの娘(こ)が男子なら

イギリス言葉を習わせて



イギリス言葉を習わせて

梅に鶯とまらせて

ホ・ホ・ホケキョと鳴かせたら

これで一巻終わりです……


参照
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