タクシー運転手の源さん(仮名)は、この道何十年というベテランで、荒っぽい運転はあまりしたことがない。
慎重な運転が身上だった。
ある日、燃料補給のためにタクシー専用のガススタンドに入ろうとした。スタンドの後方の壁にホースが取り付けてあるので、そこまでバックで入って行かなければならない。しかし、道路とスタンドの間には歩道がある。まずはバックでその歩道を横切る必要がある。
さて、車を道路わきに停車して、ギアをバックに入れたとき、正面からも後方からも人がぞろぞろ歩いて来る。特に後方からは男女の中学生の20人ぐらいの固まりが、ぺちゃくちゃ喋りながら、ぶらぶら、のろのろやって来る。中にはふざけて横にそれたり、後戻りするのもいて、行列はいっこうに進まない。
「やれやれ、こいつらが通り過ぎるのを待っていたら日が暮れるぞ」源さんはちょっといらいらしてきた。かと言って車を強引に列の中に割り込ませるのも、気が引ける。
しばらく悩んだ末、窓から頭を出して、「バックします」と言ってみたが、誰も気が付かなかった。中学生どもは歩道を占拠しつづけている。
窮すれば通ず。源さんはひらめいた。こんどは自分の口でバックブザーをまねることにした。調子はずれの、かすれ声を絞り出して「ぴ〜、ぴ〜、ぴ〜、バックしますッ、バックしますッ、ぴ〜、ぴ〜、ぴ〜」とやった。
「なんだこの音質の悪い警報音は?」
中学生たちは一斉にタクシーの方を見た。
突然注目された源さんは、それでも余裕の表情を見せながら、最後まで口で「ぴ〜、ぴ〜」と唱えつづけて、無事、歩道を横切ってスタンドに入っていった。